個人の時代だからこそ、できないことを理解していることに価値がある。

こんにちは、ほりごめ(@hiroyuki_ho)です。

 

個人の時代だからこそ、自分を正確に理解できる人が強い。

すごい当たり前のことだから。でも、いまの自分に足りていないことだから書いておこうと思います。

 

ぼくは月2〜3本、映画館へいきます。
これは仕事ばかりの毎日へのちょっとした抵抗でもあり、知らない世界にふれる楽しみでもあります。

 

 

なぜかというと「毎日同じことの繰り返しだと感性が鈍るよ」と先輩からいわれたことがきっかけでした。

 

 

変わるというのは、行動が変わるということ

小説家をはじめ、映画をつくっているひとは感性の塊じゃないかって思う。
なにもないところから一つの作品、一つの世界をつくりだす。ストーリーを通してそこに自分なりのメッセージを込める。

 

だからこそ、その作品にふれれば自分の感性を刺激できる。
そう思っていました。きっとそれは間違いではない。
でも先日その危うさも少し感じました。

 

 

それは、映画を観るたびに感化されることは、自分が何もしていないのに何かした気になってしまうということが往往にしてあります。

たとえば、恋愛映画で勇気を持って告白し恋が成就した主人公をみて、自分もなにかしらやった気になったり。世界を救ったヒーローをみて、自分も勇敢になった気になったり。

 

自分ではなにもやっていないのに何かを成し遂げた気になってしまう。
感情移入といえば聞こえはよくなる気がするが、現実世界では何も変わっていない。(ある種、これが映画がおもしろいところでもあると思うけど。)

 

 

少しドキドキしながらこれを書いているのは、自分がまさに当てはなっていると感じているから。

 

 

できないことは悪いことではなくて、できないことが分からないことが悪い。

一方で自己認識が正確にできているひとはそうなりずらい。スクリーンに映る主人公をみて、自分ならこうするとか、自分はこれが苦手だから今度取り入れてみようかといった具合に、ある種冷静にそれを観ることができる。

 

できないことを言うというのは、多くのひとが恥ずかしいと感じると思う。でも、できないことは悪いことではなくて、できないことが分からないことの方が悪い。(そして、できないことをできるように誤魔化すのは言うまでもなく、もっとよくない。)

 

いまの自分にできないこと、足りないことを正しく理解できているひとはできるように正しい努力ができる。一方で、できることできないことがわかっていない人は、どうしても努力の方向が定まらない。結果、できるようになるまで遠回りになることもある。

 

これは誰かと一緒に働くときにも言える。

「自分はこれができる」というひとは、あるプロジェクトの相談がきたときに自分ならこういうことで役に立てる。が、ここはまだまだできないので、時間がかかる。もしくはできないと伝えることができる。(誰かに頼ったり、余計なトラブルにならずに済む。)

 

個人の時代だからこそ、チームで動くことがふえる。

そんな時代だからこそ、自分にはなにができて、何ができないかをきちんと理解しておくことに価値がある

 

 

そして、できないことを言うことは、そんなに恥ずかしいことではない。
人間なのだから、得手不得手があるのは当たり前のこと。むしろ、できるような努力をすればいいだけのこと。

 

 

最後に


自分はなにができて、なにができないのか。何がすきで、なにがきらいか。
どんなときにワクワクしたり、ドキドキしたりしているか。

 

自分を理解すること。

これも日々の行動を客観的にみる、もしくは知るために行動を起こすことが必要かもしれないです。

 

そんなことを意識しながらこれから発信もしていきます。

 

 

ありがとうございました!